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田中屋の献立

短篇小説「階下の灯り」前編 作/奈良あひる

スナック「灯子(とうこ)」の店を閉めると、夜はいつも少し遅くなる。ネオンの名残が壁に揺れて、ビルの階段を降りるたび、昼間の喧騒とは違う静けさが足もとにまとわりつく。
管理員の杉浦が、この時間になると決まって一階の小部屋で書類をまとめている。六十をいくかいかないか、年齢より落ち着いて見えるが、掃除をしているときの腕や肩の張りは、妙に目を引いた。
「またこんな時間まで。体、もたないですよ」
杉浦は、灯子が階段を下りきると、読みかけの新聞をそっと畳んで立ち上がる。その何気ない仕草に、どこか家庭の匂いがあって、灯子は胸の奥がひやりとする。
「女は案外、丈夫なんですよ」
そう答えると、杉浦は苦笑いをしながら、持ち場である非常灯の点検表を渡してくれる。サインをするために並んで立つと、杉浦の体温が、肩越しに微かに触れた。
その瞬間、灯子は自分の呼吸が変わるのを感じた。
特別なことは言われていない。ただの点検作業。だが、女は時として、言葉より静かな気配に心を寄せるものだ。
――この人、丁寧な人だ。
気づいた瞬間、灯子は少しだけ腹の底が温まるのを感じた。
*
ある雨の夜、客足が引いて早めに店を閉めた。階段を降りると、管理室の灯りが落ちていた。珍しい、と思い扉に手をかけたとき、背後で傘の先が石畳を叩いた。
「驚かせたね。停電で、部屋が真っ暗でね」
振り返ると、杉浦が懐中電灯を片手に立っていた。雨粒が肩に散り、濡れたシャツの生地が肌に貼りついている。その様子に灯子は、胸の奥がじわりと熱を帯びる。
「怖かったんじゃないですか?」
そう問うと、杉浦は少し照れたように目を伏せた。
「いや…暗いのは平気だけど、誰かの声が恋しくなることはある」
その言葉が、妙にゆっくりと灯子に落ちていった。
「うち、少しだけ明かりついてます。…上がっていきます?」
言った瞬間、自分の声がわずかに震えていたのがわかった。
杉浦は驚いたように目を瞬かせ、しばらくして静かに頷いた。
*
店に戻ると、カウンターの隅だけ小さなランプが灯っていた。薄明かりがふたりを包み、外の雨音を遠くに追いやる。
「ここ、いい匂いがするね」
杉浦がそう言い、灯子は少しだけ笑った。
「お酒の匂いですよ。いろんな人の、ね」
杉浦はカウンターの縁にそっと触れた。指先がわずかに震え、灯子はその小さな揺れに気づく。
自分と同じように、誰かに触れたい夜を抱えているのだと悟った。
ふたりの間を、言葉のない時間がゆっくりと行き来する。
灯子はランプを少しだけ近くに寄せた。
その光が杉浦の横顔をなぞり、頬のしわの一本一本が、長く生きてきた人の静かなやさしさを刻んでいるように見えた。
「杉浦さん」
名前を呼ぶと、杉浦は灯子の方へ向き直った。
その距離。
あと一歩で触れてしまう距離。
なにかが静かに、ふたつの間で溶けていった。
触れたのか、触れていないのか――
灯子の記憶はその境目が曖昧になるほど、ゆっくりと温かく滲んでいった。
外では、雨がやまないまま、ビルの壁を優しく叩いていた。
つづく

