
その夜ねずみはかかっていなかった。

朝になってもねずみはかかっていなかった。
おそらく2階の真ん中の部屋の物入れの天井が開いていて、そこから出ていったのだと思う。
その天井は、すでに塞いでいる。
これで、家の中にいないはず。しかしここ2日、天井でも物音はしていないけど。
これでこの物語は終わりになりますかね。
ポルターガイストねずみ騒動なんて騒いでいた日がなつかしい。ちょっと前のことですが。
ここで一句
かじりかけ ポルターガイスト ねずみ騒動
トッピング短歌
それもここらで 謎にします
田中屋のシティスナップ「荻窪の女」

荻窪スナップ 撮影/田中宏明
ドラマ「スナックとねずみ(仮)」作/奈良あひる
カウンターの下を、茶色い影がすばやく走った。
「また出たのよ、あの子」
マリは苦笑いしながら氷をトングでつかむ。スナック〈月影〉の開店前。ネオンがまだ眠そうな顔をしている時間。ねずみは毎晩のように現れて、客の誰かの足元をすり抜けていく。
「かわいいもんじゃないの」
と、マリは言う。
でも実際のところ、かわいいと思っているのは、彼女だけだった。
その夜、ドアの鈴がちりんと鳴った。
入ってきたのはスーツ姿の男、会社帰りらしい。どこかくたびれた背中をしていた。
「いらっしゃい」
マリが声をかけると、男は帽子を軽く脱いで会釈した。
「ひとり、いいですか」
「もちろん」
カウンターに腰をおろした男のネクタイが少し曲がっているのを見て、マリは思わず直してやりたくなった。
ビールを二口ほど飲んだ男は、ふと足元に目をやった。
「……今、何か動きました?」
「うちの同居人よ」
「ねずみ?」
「そう。夜の常連さん」
マリが笑うと、男は少し安心したように口元をゆるめた。
「へえ、たくましい店ですね」
「生き延びるには、どっちも似たようなものよ」
それから、男は何度も来るようになった。名前は田島。営業の仕事で、上司とうまくいっていないらしかった。
「昼間は人の顔色ばかり見てるから、夜ぐらいは女の顔見てたいんだ」
「安い慰めね」
そう言いながらも、マリは笑っていた。笑うたび、カウンターの下で、あのねずみがカサリと音を立てた。
ある晩、田島がふいに言った。
「ママ、この店、いつまで続けるつもり?」
「ねずみが出てこなくなるまでかしら」
「それ、長生きするね」
「ええ、私よりも」
マリは氷を足しながら、ふと、手の甲に小さな傷跡を見つめた。あのねずみを追い払おうとして、棚の角で切ったのだった。痛みはもうないけれど、傷だけは残った。
その夜、田島は遅くまで残った。
「ねずみ、今日はいないね」
「恋人ができたのかも」
「恋人?」
「私たちみたいに」
マリはそう言って、グラスをふいた。
それから、二人の距離はゆっくりと近づいた。田島は出勤前に顔を出すこともあり、マリは朝まで付き合うようになった。
「奥さんに悪いわ」
「もう別れてる」
「そういうことにしておくわ」
マリはそう言いながら、指先で田島のシャツのボタンをいじった。
秋の終わり、ねずみがぱったり姿を見せなくなった。
「出なくなったわね」
「出ていったんだよ。居心地が悪くなって」
「どっちが?」
マリが聞くと、田島は答えなかった。
年の瀬が近づいたころ、田島の姿も見えなくなった。電話も鳴らない。
マリは静かな店で、カウンターの下に目をやった。
――ほら、あなたの席、空いてるわよ。
そう呟いたが、返事はなかった。
ある晩、閉店後にふと音がした。
カサリ。
マリは笑った。
「おかえり」
ねずみは棚の上にのぼり、ほこりのついたグラスの影に消えた。
マリはグラスを磨きながら、ひとりごとのように言った。
「恋もね、逃げて戻ってくるのよ。あんたと同じ」
その夜、店のネオンがゆっくりと明滅した。
〈月影〉という名前の文字が、冬の風に揺れながら、少し滲んで見えた。

