田中屋スポーツ新聞1/7「」

外食記録と日記
外食記録と日記 短篇小説

=田中屋スポーツ新聞=新聞を読めと言われた世代!?読むならスポーツ新聞だな。情熱といかがわしさのサンドウィッチ。ジャンクな話題をコーヒーで流し込め!学校でも職場でも使える話題をお届け 

連載プチロマン小説「満天のエスカレーター物語」第1話

その人がスマホを持っていないと知ったとき、私は少しだけ安心した。

 待ち合わせの喫茶店で、向かい合って座った彼は、テーブルに何も置かなかった。鍵と、古びた文庫本だけ。世の中の人がみんな、光る板を伏せたり裏返したりしている中で、彼の前だけがやけにすっきりしている。

「持たないんですか、携帯」

「なくても、困らないから」

 そう言って笑う顔が、子どもみたいだった。

 私も同じだった。会社を辞めたとき、スマホを解約した。呼び出されることも、既読がつくことも、もうたくさんだった。世界から細い糸で引っぱられている感じが、どうにも性に合わなかった。

 だから私たちは、すぐ仲間みたいになった。

 
 帰り道、駅裏のロータリーにある野外のエスカレーターの話になった。

「屋根がないやつ、知ってます?」

「ああ、雨ざらしの」

「夏は手すり、ぬるいんですよね。冬は氷みたいで」

「機械なのに、体温があるみたいだ」

 同じことを考えていたらしい。思わず笑ってしまった。

 誰もいない午後、そのエスカレーターに二人で乗ったことがあると言う。風が吹き抜けて、妙にさびしくて、でも帰りたくなくて。

「なんか、人間みたいでさ。働きっぱなしで、ちょっとかわいそうで」

 彼の声は低くて、耳の奥にやわらかく触れた。

 私は急に、その景色を彼と見たくなった。

 
 夕方、実際にそこへ行った。

 人影はなく、金属の段差だけが淡々と上へ運んでいる。夕日を浴びて、銀色が少し桃色に染まっていた。

 手すりに触れると、まだ昼の熱が残っている。

「ほんとだ、あったかい」

 言った瞬間、彼の手が私の手の上に重なった。

 偶然みたいに、自然に。

 逃げる理由が、思いつかなかった。

 上へ運ばれていく間、私たちは黙っていた。風で髪が頬に当たる。彼の指が、そっと絡む。エスカレーターの低い駆動音が、心臓の音みたいに聞こえた。

 機械に抱き上げられているようで、少しだけ無防備になる。

 
 そのまま近くの古いホテルに入ったのは、成り行きだった。

 部屋は薄暗く、カーテンがゆれている。遠くで車の音。

 彼のシャツの匂いが、洗いたてのシーツみたいで、胸の奥がきゅっとした。

 キスは、驚くほど静かだった。

 触れられるたび、体がゆっくり溶けていく。長い間しまっていた引き出しを、ひとつずつ開けられていくみたいに。

 言葉はほとんどなく、ただ体温だけが行き来した。

 
 帰り際、またあのエスカレーターを下から見上げた。

 夜の灯りに照らされて、黙々と動いている。

「明日も、あれは動いてるんだろうね」

「うん。誰が乗っても、同じ顔して」

 私たちは笑った。

 スマホがないから、連絡先も交換しなかった。ただ時間と匂いだけが残る。

 それで十分だと思った。

 あのエスカレーターみたいに、名前もなく、用もなく、ただ静かに隣に立てる関係が、私にはちょうどよかった。

 手すりのぬくもりが、まだ指先に残っていた。

つづく

本日の献立

朝:ピーマン ブロッコリー プチトマト

昼:Mint弁当

夕:焼肉天龍

夜:カレーライス 

タイトルとURLをコピーしました