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「満天のエスカレーター物語」第4話(最終話)

秋が深くなるころ、私はひとつ嘘を持った。
小さな、ポケットに入る嘘。
スマホを買った。
理由は単純だった。
仕事をまた始めたから。
連絡網に入らないと困るとか、地図がないと不便だとか、そういう現実的な理由。
でも本当は、少しだけ怖くなったのだ。
偶然だけに人生を預けるのが。
彼に、もう会えないかもしれないことが。
黒い画面に自分の顔が映る。
電源を入れると、世界が一斉に話しかけてくる。
通知、ニュース、天気。
便利で、せわしなくて、少し寂しい。
前みたいな、深海みたいな静けさは、もうない。
それでも私は、あのエスカレーターに通っていた。
スマホはバッグの奥で、眠らせたまま。
彼の前では、まだ持っていない顔をしたかった。
十一月の夕方。
空気が薄くて、息が白い。
手すりはすっかり冷たくなっていた。
今日はいない気がする。
なんとなく、そんな予感があった。
それでも足を乗せる。
上へ、上へ。
機械は相変わらず無言で働いている。
中腹で、下から影が現れた。
見慣れたコート。
文庫本。
少し猫背な歩き方。
胸が、静かに鳴る。
驚きというより、「やっぱり」という感じ。
「寒いですね」
彼が言う。
「ほんとに」
笑い合う。
それだけで、十分だった。
並んで乗る。
肩が触れる。
コート越しの体温。
何度も触れた温度。
でも今日は、少しだけ胸がざわついていた。
バッグの中の四角い重みのせいだ。
ホテルには行かなかった。
かわりに、近くの喫茶店に入った。
最初に会った、あの古い店。
テーブルの上には、彼の文庫本と鍵。
何も置かれていない空間。
そこに、自分のバッグを置いた瞬間、かすかに電子音が鳴った。
ピロン、と。
二人同時に目をやる。
私のバッグ。
しまった、と思った。
「……買ったんだ」
彼は責めるでもなく、ただ事実として言った。
「うん」
言い訳が、いくつも浮かんでは消える。
「仕事で、必要になって」
少しの沈黙。
コーヒーの湯気だけが立ちのぼる。
「そっか」
彼は笑った。
あっさりと。
「便利だもんね」
その「便利だもんね」が、やけに遠かった。
「番号、交換する?」
思わず言っていた。
言った瞬間、胸が痛んだ。
ずっとしなかったことを、私のほうから壊している。
彼は少し考えて、首を振った。
「やめとこう」
やさしい声。
「持たない同士で会えてたの、なんかよかったし」
そう言って、カップに口をつける。
「連絡できるようになったらさ、たぶん、つまんなくなる気がする」
約束とか、既読とか、返信とか。
そういうもので、きっと濁る。
私も、分かっていた。
店を出る。
夜風が冷たい。
自然に手をつなぐ。
これまでと同じ形。
でも、もう同じではない気がする。
エスカレーターの前で立ち止まる。
金属が青白く光っている。
「これ、止まったらどうなるんだろうね」
私が言う。
「階段になるだけじゃない?」
彼が笑う。
ただの階段。
自分の足で、上るしかない。
途中まで一緒に乗って、真ん中あたりで、私は降りた。
下り側に乗り換える。
上へ行く彼と、下へ行く私。
すれ違う瞬間、キスをした。
短く、静かに。
冬の匂いがした。
「元気で」
「うん」
それだけ。
彼はそのまま上へ運ばれていく。
私は下へ。
ポケットの中で、スマホがまた小さく光った。
けれど、もう見なかった。
あのエスカレーターは、今日も止まらない。
人を乗せても、乗せなくても、同じ速さで動いている。
私たちも、きっとそうだった。
少しだけ触れ合って、同じ時間を共有して、そしてまた、それぞれの場所へ運ばれていく。
ただ、それだけ。
でも、その体温だけは、たぶん一生消えない。
おしまい
本日の献立
朝:ワッフル 野菜スープ

昼:おにぎり スーパーの鳥のからあげとアジフライ
夜:
作者紹介
田中宏明 1980年生まれ 東京都昭島市出身の写真家・放送作家・ラジオバンドマン。
2003年 日本大学文理学部応用数学科 ぎりぎり卒業。下北沢・吉祥寺での売れないバンドマン生活&放送作家として日テレ・フジテレビ・テレビ朝日を出入りする。
現在はピンでラジオと弾き語りでのパフォーマンスをおこなっている。
◆写真家:シティスナップとかるーい読物「井の頭Pastoral」撮影・編集
◆放送作家:ラジオドラマ「湘南サラリーマン女子」「わけありキャバレー」原作・脚本
出演ラジオ 第103回
田中屋のシティスナップ

