横浜ルームナンバー

短篇小説

あの夜から、ちょうど五日。
午前の光の中に、その手紙は届いた。

封筒は、前と同じく無地のアイボリー。
けれど、差出人の名前が今回は、「佳乃」だけだった。


【佳乃 → 私】

拝復

あの夜は、ありがとうございました。

あんなふうに、まるで水がこぼれるように自然に流れて、
三人でひとつの部屋の空気になったことが、今も信じられません。

私は、あの夜のあなたの横顔をずっと思い出しています。

あなたは、触れられるときよりも、
触れられる前の“一瞬の沈黙”に、いちばん色気がある人だと感じました。

あのとき、わたしが少し震えていたの、わかりましたか?

わたし、ほんとうにあなたに触れたくて、でも触れきれなくて、
触れたときにはもう、指先が熱をもっていて、
それがあなたのものなのか、わたしのものなのか、
わからなくなっていました。

健介はきっと、あなたの中の静かな水面を、丁寧に揺らしてくれたんですね。
私にも、それが伝わってきました。

でも私は、
あなたが声を抑えてシーツを掴んだあの瞬間のほうが、
なによりも強く、官能的に見えました。

あれは、演技ではなかったでしょう?
台本でも、企画でもなかったでしょう?

あの夜、私は“何かを見届けてしまった”気がして、
それでも、あなたの肌の柔らかさと、
目が合ったときの呼吸の合い方が、
忘れられません。

だから――また、お会いしたいです。

今度は、
あなたと、二人だけで。

健介には、まだ話していません。
けれど、あなたに会いたいという気持ちは、私自身のものです。

わたしが何を感じていて、
あなたが何を望んでいないのか、
そのあいだのことを、もう少しだけ、試してみたくなったのです。

怖がらせてしまったら、ごめんなさい。
返事は急ぎません。
でも、もしほんの少しでも、あの夜の続きを思い出すときがあるなら――
その気配だけでも、教えてください。

佳乃


手紙を読み終えたあと、私は一度も息をつき直せなかった。

あの夜のことは、忘れようとしていたわけではない。
ただ、思い出すには輪郭が曖昧すぎて、思い出さないには熱が残りすぎていた。

佳乃の指先。
唇が耳に近づいたときの吐息。
なにより、私に向けられた視線の、まっすぐさ。

夫を介して始まった奇妙な関係のなかで、
私は今、**夫ではなく佳乃の“確かさ”**に戸惑っていた。

それが友情なのか、欲望なのか、
あるいは“嫉妬”という名をした執着なのか――
もはや言葉が見つからなかった。

ただひとつ言えるのは、
私の中の「女」の部分が、佳乃の手紙を読んだあと、
わずかに、でも確かに、うずいたということだった。


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