=青春プチロマン小説=ありそうでなさそうで、それでも起きそうなロマンスをお届けする短篇小説。きっとどこかで起きている。
家・夕暮れ
雨上がりの匂いがまだ残る夕暮れだった。
真砂子は薄い生成りのブラウスを着て、夫の帰りを待つふりをしながら、ひとりで急須に湯を注いだ。窓の外には、濡れた電線に小鳥がとまり、羽を整えている。ごく当たり前の光景なのに、胸の奥に小さな波が立った。
その日の午後、電話があった。
「近くまで来ているんだが、寄ってもいいかな」
受話器から響いた声は、かつて一度だけ心を乱された相手のものだった。
彼の名は村井。十年ほど前、夫の同僚として家に出入りしたことがある。明るさよりも影の似合う男で、真砂子にとっては“もしも”の相手だった。
再会は唐突で、断る理由を探す前に約束はできていた。
――五時ごろ伺います。
その言葉が耳に残り、真砂子は湯呑を持つ指先に力が入った。
玄関の呼び鈴が鳴ったのは、まさにその刻限だった。
戸を開けると、村井は濡れた傘を軽く払って立っていた。
「変わらないね」
そう言われて、真砂子は思わず笑った。自分でも、どこが変わらないのか分からなかったが、そのひと言が胸を温める。
二人は客間に腰を下ろした。氷を入れたグラスに冷茶を注ぐと、村井はじっと琥珀色の液体を眺めた。
「こうしていると、昔に戻ったみたいだ」
「そんなに昔じゃないでしょう」
「いや、僕には遠い」
視線がふと重なった。薄暗い部屋に、蝉の声が遠く響く。
真砂子は、その沈黙の長さに自分の鼓動を測っていた。
「今は、お幸せ?」
唐突に問われ、真砂子はグラスを置いた。
「ええ、まあ……」
答えながら、自分でも空々しいと思った。幸福の形を、彼女はすでに測れなくなっていたからだ。
村井の手が、テーブルの端に置かれた。白い指がわずかに震え、その影が畳に伸びる。
その仕草ひとつで、かつて抑え込んだ感情が蘇る。
――この人の手を、触れてみたい。
だが同時に、触れてはならないとも思う。
風が障子を揺らし、薄い紙越しに夕陽が射した。
その光が二人の間に落ちて、輪郭を曖昧にする。
村井は静かに口を開いた。
「本当はね、あの頃から思っていたんだ」
「何を?」
「あなたを、好きだった」
真砂子は息を呑んだ。
耳の奥が熱くなり、返事を探す間に、言葉は喉でからまった。
「……今さらでしょう」
ようやく出た声は、震えていた。
村井は笑わなかった。ただ、少しだけ体を前に傾けた。その距離が危うくて、真砂子は目を閉じた。
唇が触れるほどの近さで、二人は止まった。
触れれば崩れる。触れなければ終わる。
その狭間で、時間がゆっくりと過ぎた。
外では、また雨が降り出していた。
「ごめん」
村井は低く言った。
その声に、真砂子の胸の奥がきしむ。
ほんの少し前なら、彼女はすべてを捨ててもいいと思ったかもしれない。だが今は、暮らしという網の目が彼女を囲んでいた。
真砂子は立ち上がり、窓を閉めた。
「お茶、もう一杯いかが?」
振り向いたとき、村井の表情は読み取れなかった。
しばらくして彼は席を立ち、玄関へ向かった。
雨は小止みになり、石畳に水が光っている。
「ありがとう。会えてよかった」
その言葉を残し、村井は傘を開いて去っていった。
戸を閉めた瞬間、真砂子は深く息をついた。
背中に、まだ誰かの体温が残っているようだった。
夜遅く、夫が帰宅した。
「今日は涼しいね」
そう言って上着を脱ぐ夫を見ながら、真砂子は微笑んだ。
けれど心の奥では、先ほどの雨音と、触れなかった唇の感触が、静かにくすぶり続けていた。
作者紹介
奈良あひる 1990年生まれ 渋谷の会社員
趣味で体験をいかした青春小説を書いています。応援よろしくお願いします。