六本木の灯り 後編 作/奈良あひる

短篇小説
短篇小説

それから数週間後、加瀬さんと私は再び会うことになった。
 きっかけは彼から届いた一通の短いメールだった。――「あの夜の話の続きを、聞かせてほしい」。

 待ち合わせは、六本木のディスコではなく、落ち着いた喫茶店だった。ガラス越しに春雨の粒が落ちてゆくのを眺めながら、私たちはゆっくりと会話を重ねた。文学の話も、仕事の愚痴も、そして学生である私の日常も、どれも不思議なほど自然に繋がった。

 「じゃあ、少し歩きませんか」
 雨上がりの舗道を並んで歩くと、夜の街は昼間よりも静かで、二人だけの世界のように思えた。気づけば私は、自分でも驚くほど素直に笑い、彼の横顔を眺めていた。

 そして、その流れで彼の部屋に招かれることになった。
 「無理しなくていいですよ」
 玄関で靴を脱ぐとき、加瀬さんはそう言った。けれど私は首を振り、奥へと進んだ。心の奥底で、ずっと彼に惹かれていたことを、ようやく認める気持ちになっていた。

 部屋は意外にも質素で、本棚には仕事の資料と小説が並んでいた。窓辺に置かれたランプの柔らかな光が、緊張を和らげる。
 「お茶を淹れますね」
 彼がキッチンへ立った。私はソファに腰を下ろし、鼓動の早さを手のひらで押さえた。

 やがて湯気の立つカップを手渡されると、私たちは肩を並べて座った。何気ない話題を続けながらも、ふと沈黙が訪れた。そのとき、彼の指が私の手に触れた。
 「……来てくれて、うれしい」
 その声に応えるように、私は小さくうなずいた。

 距離は自然に縮まり、唇が触れ合った。最初は戸惑いを含んだ軽い口づけ。それが少しずつ深まり、互いの呼吸を確かめ合うようになった。肩に回された腕の力に、私は身をゆだねた。

 時間の感覚は曖昧になり、やがてソファから寝室へと移っていた。窓の外には、春の夜を照らす街灯の光がちらちらと揺れている。
 彼の手のひらが私の背をなぞり、髪を優しく撫でる。直接的な言葉にしなくても、その触れ方から、彼の想いが伝わってくる。私はまぶたを閉じ、ただその温もりを受け止めた。

 服の布越しに感じる体温、浅い吐息、指先に伝わるかすかな震え。それらはひとつひとつ、初めての驚きと甘さを伴って胸に刻まれていった。
 「大丈夫?」と彼が耳もとでささやく。私は息を整えながら、かすかに「はい」と答えた。

 互いに確かめ合うような長い夜が続いた。
 街のざわめきが遠のき、部屋の中には私たちの鼓動と静かな吐息だけが溶けていった。

 翌朝、カーテンの隙間から光が差し込む中で目を覚ますと、加瀬さんが隣に眠っていた。まだ夢の続きのように思え、現実感が薄かった。けれど心の奥には、昨夜よりもずっと強い確信があった。

 ――私は彼と出会ってしまった。
 あの六本木の夜から始まった小さな偶然が、今はもう引き返せない物語に変わっている。

 そのことに気づいたとき、なぜか不安よりも、胸の奥に静かな温かさが広がっていった。

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