六本木の灯り
あの晩のことを、私はなぜか忘れられずにいる。
大学三年の春休み、友人に誘われて六本木のディスコに足を運んだ。普段の私なら、そういう場所は敬遠する。どちらかといえば家で本を読んだり、友達と喫茶店で長話をするほうが性に合っていた。それでもその日は、少し気分を変えたかった。長く続いた恋が唐突に終わり、心にぽっかりと穴が空いていたからかもしれない。
ネオンに照らされた地下への階段を降りると、薄暗いフロアに音楽が鳴り響き、まばゆい照明が人の影を斑に照らしていた。スパンコールのついたドレスや、肩の開いたブラウス、濃い香水の匂い。そこにいるだけで別世界に迷い込んだような心地がした。
友人は早速知り合いらしい男性たちに呼ばれ、輪の中に消えていった。私はひとり残され、グラスを片手に壁際に立っていた。慣れない場所に立ち尽くす自分が、場違いな少女に思え、少し恥ずかしかった。
その時だった。
「こんばんは。ひとりですか」
背の高い男性が声をかけてきた。黒いシャツに細いネクタイ、年の頃は二十代後半か三十代に差しかかるくらい。派手ではないが、どこか落ち着いた雰囲気をまとっていた。
私は思わずグラスを持つ手を強く握った。警戒心と同時に、どこかで安堵もしていた。話し相手ができたことに。
「ええ、友達が知り合いのところへ行ってしまって」
「よかったら、少し話しませんか。ここはうるさいから」
彼はフロアの隅にあるソファ席を指さした。半ば導かれるように、私は彼の後をついていった。
名を聞くと「加瀬」と名乗った。広告代理店に勤めているという。都会的な肩書きに少し身構えたが、話してみると意外なほど柔らかい声で、相手の言葉をよく聞く人だった。
「大学生ですか」
「はい。文学部で、卒論の準備を始めたところです」
「へえ、文学。どんな作家が好きなんですか」
彼は社交辞令ではなく、本当に興味を持っているように見えた。その目の奥の光が、私の心を和らげていった。
「太宰とか、三島とか……。でも最近は、向田邦子を読むのが好きです」
「いいですね。人の心の揺れ方を細かく描ける人ですよね」
思いがけず共通の話題が見つかり、私は胸が温かくなった。普段なら、ディスコで本の話をするなど想像もできない。けれど加瀬さんは、音楽に身をゆだねるよりも、目の前の会話を大事にしているようだった。
話すうちに、私は自分のことをあれこれ語っていた。地方の町から上京したこと、最初は東京の速さに息が詰まりそうだったこと、でも最近はようやく街に慣れてきたこと。彼は相槌を打ちながら、時に笑い、時に真剣に耳を傾けた。
「六本木って、少し怖い場所だと思ってました」
「わかりますよ。僕も最初はそうでした。でも、慣れてくると案外居心地がいい。人の数だけいろんな顔を持っている街なんです」
そう言ってグラスを傾ける姿に、私は妙な安心感を覚えた。彼がこの街の「裏側」まで知っている人に見えたからかもしれない。
ふと時計を見ると、もうすぐ終電の時刻だった。友人はまだ戻ってこない。私は少し迷った末に、加瀬さんに尋ねた。
「駅まで一緒に歩いていただけますか」
「もちろん」
外に出ると、夜風がほてった頬を冷ました。街路樹の間から覗く東京タワーの灯りが、春の空気に揺れている。人混みの中を並んで歩きながら、不思議な心の高鳴りを感じた。
「今日は来てよかったです」
私が言うと、加瀬さんは少し笑った。
「僕も。こういう場所で、こんなふうに話せる人に会えるとは思ってなかった」
駅の入り口まで来ると、足が止まった。別れたくない気持ちと、これ以上は踏み込めない気持ちが、胸の中で綱引きをしていた。
「また、お会いできたらいいですね」
加瀬さんの言葉に、私は小さくうなずいた。
「はい」
握手を交わすわけでもなく、連絡先を交換するわけでもなかった。ただその夜の街灯の下で、互いに少し笑っただけ。けれどその瞬間、見知らぬ人から友人へ、そしてもう少し先の何かへと、心がゆっくりと移ろっていくのを感じた。
電車に揺られながら、私は窓に映る自分の顔を見つめた。さっきよりも少し大人びて見えるのは、気のせいだろうか。
六本木の夜のざわめきが、まだ耳の奥で微かに鳴っていた。
つづく