たゆたう、からだ
ヨガを始めたのは、三十五を過ぎた頃だった。
肩こりと、夜中に目が覚める癖。駅までの階段で息が上がること。老いというほどではないが、体が音を立てて崩れていくような気がしていた。
教室に通い始めて三ヶ月。
彼女の存在は、呼吸と同じように自然に、私の生活に入ってきた。
「肩、力が入ってますね」
「息、吐くのが浅いかも」
その言葉に、私は少しだけ胸を張ってしまう。
まるで、咎められながら甘やかされているような、そんな感覚があった。
佳奈(かな)先生。
白いTシャツとレギンス姿。髪は結ばず、肩にかかる。
無造作に見えて、指先まで神経が行き届いている人。
見られることにも、触れることにも動じない。だから、たまに視線が合うだけで、心がざわついた。
ある日、教室が終わる頃に声をかけられた。
「今夜、時間ありますか?」
家で私にあったポーズの練習があるとかなんとかという話だった。
彼女の部屋は、思ったより素朴だった。
観葉植物とアロマの香り。カーテン越しに街灯の灯りが入って、室内はうっすらと青かった。
「リラックスするポーズ、ひとつだけやってみましょう」
床にマットを敷き、彼女は私の隣に座った。
足を組んで、背をまっすぐに。
「吸って、吐いて」
それだけのことが、やけに特別に感じた。
「少し、仰向けになりますか?」
マットに寝転がると、彼女の手が私の胸のあたりに触れた。
そのまま、そっと押し下げる。
「ここで、止まってるんです。呼吸が」
息が詰まったのは、むしろ彼女の指のせいだった。
胸の上を通った手が、腹に降りる。
Tシャツ越しに、掌が体温を残して滑っていく。
「…どうしてこんなに熱いんですか?」
答えられない。
彼女の髪が肩に触れる。
吐く息が、喉の奥で甘く響いた。
「触れていいですか?」
頷いたのは、体だった。
彼女の指が、私の下腹部に沈んでいく。
ズボンのゴムが、ゆるく引き下ろされる音がする。
空気にさらされた皮膚がざわめき、そこに彼女の唇が触れた瞬間、視界がぐらりと揺れた。
俵万智の短歌に、こんな一節がある。
「好きです」と言うかわりに ふれる指
くちびる 肩の 内側の熱
そのとおりだった。
彼女の口が、喉もとを、鎖骨を、乳首を、静かに吸った。
ひとつひとつ、息をかけるように。
下腹部に触れた指は、慎重に、でも確実に、中心を探してきた。
「……苦しくない?」
「気持ちいいです」
その返事で、彼女は男の中心をやさしく包んだ。
思わず声が漏れそうになり、唇をかんだ。
佳奈の動きは、波のようだった。
寄せては返す、絶え間ない刺激。
腰の奥が焼けるように熱く、何かが溶けていく感覚。
最後に唇が重なったとき、私はそれを「キス」と呼べなかった。
あまりにも、呼吸に近すぎた。
しばらくして、私はマットに横たわり、目を閉じた。
彼女が背中にブランケットをかけてくれる。
「ヨガって、最後は脱力なんです」
「……それ、今日いちばん効きました」
彼女は笑った。
その笑い声が、ずっと、耳の奥に残った。
次の週も、私は彼女の教室へ行った。
ヨガを続けるためなのか、彼女に触れてほしいだけなのか。
その境界は、いまだに曖昧なままだ。
でも構わない。
つづく