「薄曇りの午後」第1話 作/奈良あひる

短篇小説

第1話

薄曇りの午後だった。オフィスの窓にかかったブラインドがわずかに揺れ、心細い影だけを机の上に落としていた。
後輩の由佳が、書類を抱えたまま戻ってこない。さっきまで平然としていた顔を思い返すと、胸がざわつく。

「先に上がらせてもらいます」

そう告げた由佳の声は、どこか遠い。既婚者とは思えないほど軽やかで、空気に体温が残らない。

―また、あの人のところに行くのだろう。

思い浮かぶのは、同じフロアの営業部にいる春木の横顔だ。誰に対しても柔らかく、けれど目の奥に何かを抱えたような男。
由佳が彼に気持ちを寄せていることは、本人が語らずとも、わかってしまう。

オフィスを出て駅まで歩く道すがら、私はふと立ち止まった。
行き先が、足の裏からじんわりと決まっていく。帰宅するより先に、やらなければいけないことがあった。

春木のアパートは、会社から二駅離れた古い住宅街にあった。
呼び鈴を押す指が、思ったより冷たい。

「…先輩?」

扉を開けた彼は、仕事の時と同じ微笑みを作りかけて、すぐに崩した。
ここが会社ではないことを、互いに瞬時に理解したからだ。

「少し、話があって」

靴を脱ぐよう促され、狭い玄関に足を踏み入れる。
部屋は整っていて、余計なものがない。
まるで人を寄せつけないような、しかしどこかで誰かを迎えてきた痕跡のような匂いがした。

「由佳のことで来られたんですよね」

彼は、私が言い出す前に先に言った。
目をそらすように、テーブルの上のコップを並べ直している。

「あなたもわかってるでしょう。あの子、家庭があるのよ」

「わかっています。でも、僕だけが悪いんですか」

彼の言葉は穏やかだが、芯のところに自分でも持て余している熱があった。

由佳に限らず、女というものは、誰かに寄りかかりたくなる瞬間がある。
それを咎める資格は私にはない。
ただ、彼女が選んだ相手が、この目の前の男だということが、妙に胸の奥をざわつかせる。

「もう、会わないであげてほしいの」

自分の声が、思いのほか小さく漏れた。

春木はしばらく黙り、カーテン越しの薄い光を眺めた。
その横顔に、由佳が惹かれた理由が少しだけ理解できてしまう。
彼は優しい。だが、その優しさは、ときに人を迷わせる。

「先輩こそ、どうしてそこまで」

静かな問いだった。
胸の内側をふっと撫でられたような感覚がする。

理由は言葉にできなかった。
後輩を心配している、ということだけではない。
あの子が、誰かに抱きとめられてしまう瞬間を想像しただけで、
なぜか自分の足元がぐらつくような気がする。

「…放っておけないだけよ」

ようやくそれだけを返した。

春木は、深く息を吸い、結論を整えるように唇を引き結んだ。

「わかりました。もう会いません」

その表情は、どこかで誰かを手放す覚悟をした人のものだった。
部屋の空気が少し沈み、私はなぜか、安堵と痛みの両方を感じた。

帰り際、玄関の薄暗がりで振り返る。
彼は立っていた。
見送りというより、自分の決めたことを確かめるように。

「先輩。…ありがとうございます」

その一言が、胸の奥に静かに落ちていった。

外に出ると、さっきの薄曇りが嘘のように晴れていた。
歩き出す足は軽くも重くもなく、ただ前へと進んでいく。

後輩の未来のために来たはずなのに、
自分のどこかも同時に整理されたような、不思議な午後だった。

作者紹介 

奈良あひる 1990年生まれ 渋谷の会社員 
趣味で体験をいかした青春小説を書いています。応援よろしくお願いします。 

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