官能小説の習作「波のあとさき」作/奈良あひる

短篇小説

前篇「波のあとさき」

焼けた砂がまだ熱をもっていて、彼女の足裏に残っている。
夕陽が水平線を舐める頃、ようやく彼女はボードを脇に抱えて浜に戻ってきた。

「遅かったね」

俺は車の影から出て、タオルを差し出した。
その指先が、彼女のしずくを帯びた鎖骨に触れたとき、
水よりもぬるく、欲よりも淡い何かが、波のように広がった。

「波、よかったの」
そう言って笑う彼女の口角に、少しだけ塩の白が残っている。

助手席にボードを積むと、俺たちは無言で海を背にした。
香水は使わない人だった。
だけど、車のなかはいつも潮と、日焼け止めと、彼女の皮膚の匂いで満ちる。

サイドミラーに、赤くにじむ夕暮れと、
濡れた髪をかきあげる彼女の横顔が重なる。

「シャワー、借りていい?」

俺のアパートの鍵を、彼女はもう迷わず回すようになっていた。

シャワーの音の向こうから、
ときおり鼻歌が聞こえる。
それは子どもみたいに自由で、
俺の胸の奥をむずがゆくさせた。

彼女がバスタオル一枚で出てきたとき、
その素肌には、まだしずくが残っていた。
視線をそらせなかった。
ああ、そうだ。
波よりも、光よりも、今俺が求めているのはこの女だ。

「こっち、来いよ」

俺の声は、思っていたより低かった。

タオルを滑らせて落とした彼女の肌に、
すっと指を這わせる。
肩から、胸へ。乳房の頂に指先が触れると、
彼女は目を伏せ、かすかに息をのんだ。

そのくちびるを吸うと、
潮の味がした。
じっとりとした舌先が、俺の奥を引きずり出す。

彼女は俺のシャツのボタンを一つずつ外して、
脱がせていった。
焦らすでもなく、急かすでもなく、
ちょうど波が引いては寄せるみたいに。

ベッドの上で彼女は、
ひらいた脚のあいだから、俺を受け入れた。

「もっと、奥…」

その言葉に、俺は腰を打ちつける。
きしむ音、湿った肌が擦れあう音、
彼女のくぐもったあえぎ。
波が打ち寄せるみたいに、彼女の中が蠢いていた。

目と目が合うたびに、
俺は溺れていた。
こんなにも、深いところで抱かれている。

幾度かの波を越えたあと、
彼女は俺の胸に頬をのせて、
こう言った。

「波って、同じように見えて、二度と同じのは来ないのよ」

それが、別れの前触れだと、
気づいたのはずっとあとだった。

「しばらく海、行けなくなるの」

それは、ある朝のLINEだった。
理由は訊かなかった。
俺に訊く資格もなかったからだ。

夏が終わりかけていた。

浜辺にはもう、彼女の影はなかった。
ボードも、濡れた髪も、あの笑い声も。

俺の部屋のシャワーには、
彼女が最後に使った石けんが、まだ残っている。
ときどき、無意識に匂いを嗅いでしまう。
海の記憶は、皮膚に残る。
この胸の奥にも。

季節が巡っても、
あの波のようなまぐわいと、
彼女の中でしか見られなかった空の色は、
きっと忘れない。

「今度の波、良かった?」

そんなメッセージを送ろうとして、
指が止まる。

あの時と同じように、波は今日も寄せては返す。
でももう、
彼女の笑顔を運ぶことはない。

俺だけが、まだ岸に立っている。
焼けた砂の上で、
あの日の体温を、
ただ一人で思い出している。

後編

作者紹介

奈良あひる 1990年生まれ 渋谷のサラリーマン

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