ひと駅ひとカレー屋「南林間駅 チャンドラスーリヤ」
本日のランチ
チキンカレー・ナン・サラダ・ラッシー



場所・地図
本棚


この著者紹介はおもしろい。このパターンはあまり見かけたことがない。
小説「インドの著者紹介によろしく」作/奈良あひる
その店は、駅から少し離れた住宅街の角にぽつんとあった。昼を過ぎてもカレーの香りが通りに漂い、看板の「ナマステ」という字だけが少し色あせている。
真理子がその店に入ったのは、偶然というより、逃げこむような気持ちからだった。午前中、同僚と些細なことで言い合いになり、気まずさを抱えたまま外に出た。冷たい風に背中を押されるようにして、ふとカレーの匂いに引き寄せられたのだ。
店内はインドの音楽が小さく流れ、壁には神様の金色の絵。二人がけのテーブルに腰を下ろすと、インド人の店主が笑顔で水を運んできた。その笑顔が妙にまっすぐで、少し照れくさかった。
注文を済ませて待つ間、真理子は棚の一角に無造作に並べられた本に目をやった。古びた文庫本が多く、料理本のあいだに文学全集が紛れている。その中から、背表紙が日焼けした一冊をなんとなく手に取った。
『心という名の小部屋』――知らない作家の随筆集だった。パラパラとめくっていくと、最後のページに「著者紹介」という欄があった。
“著者は、午後三時に飲む紅茶と、郵便受けに届く見知らぬ封筒を信じて生きている。特技は忘れること。”
思わず笑ってしまった。こんな紹介文を見たのは初めてだった。誰かに恋をしているときのような、心の奥が少し温かくなる感じがした。
そのとき、入口のベルが鳴った。振り向くと、会社の同僚の岡田が立っていた。昼食を外でとることなど珍しい彼が、偶然同じ店に来たのだった。
「こんなところで会うなんて、奇遇ですね」
「ええ……まあ」
彼はテーブルを指さして、「ご一緒していいですか」と言った。断る理由もなく、真理子はうなずいた。彼はチキンカレーを頼み、少し緊張したようにメニューを閉じた。
話題が見つからず、沈黙が流れたとき、真理子は例の本をテーブルに置いた。
「これ、面白いですよ。著者紹介がとくに」
岡田はページをめくり、その一文を読んでふっと笑った。
「午後三時に紅茶……なんか、いいですね」
その笑い方に、真理子は不意を突かれた。いつも事務的で無表情だと思っていた岡田の笑い方が、意外にもやわらかく、少し少年のようだった。
カレーの香りのなかで、二人はその著者の話をした。紅茶の時間、忘れることの特技、見知らぬ封筒。言葉を交わすたび、胸の奥の硬いものがほどけていくようだった。
食後、岡田が言った。
「午後三時、もしお時間あれば……紅茶でもどうですか」
それが社交辞令ではないことを、真理子はすぐに感じ取った。彼の声の奥に、あの紹介文のような、少し照れた真実があった。
午後三時。会社に戻っても、時計の針がその時間に近づくたび、胸がそわそわした。
岡田からのメールはなかった。だが、三時を過ぎたころ、デスクの上に小さな封筒が置かれていた。差出人の名前はない。中には「この本、貸してもらえますか」とだけ書かれた紙切れ。
思わず笑みがこぼれた。
午後三時に紅茶を飲み、郵便受けを信じて生きる――あの著者のように、真理子もまた、心という名の小部屋に、静かな風を通した気がした。
作者紹介
田中宏明 1980年生まれ 東京都昭島市出身の写真家・放送作家。
2003年 日本大学文理学部応用数学科 ぎりぎり卒業。下北沢・吉祥寺での売れないバンドマン生活&放送作家として日テレ・フジテレビ・テレビ朝日を出入りする。現在はピンでラジオと弾き語りでのパフォーマンスをおこなっている。
◆写真家:シティスナップとかるーい読物「井の頭Pastoral」撮影・編集
◆放送作家:ラジオドラマ「湘南サラリーマン女子」原作・脚本 オールデイズ直江津Radioで放送中!
出演ラジオ 第100回
田中屋のシティスナップ

