プチ官能小説の習作「白い湯気」後編 奈良あひる

短篇小説

「白い湯気」後編 — 湯冷め —

目を覚ますと、隣に彼の姿はなかった。
枕に残る体温と、かすかに香る石鹸の匂いだけが、夜の名残を語っていた。

カーテンの隙間から、朝の光が細く伸びている。
その光を目で追いながら、私は毛布を胸元まで引き寄せた。

肌のあちこちが、やさしい痺れのような感覚を残している。
昨夜のことは、夢ではなかったのだと、からだが証明していた。

台所から、湯がわく音が聞こえた。
彼は、また湯豆腐を作っているのかもしれない。
笑ってしまいそうになるが、なぜか涙が出そうにもなった。

彼「おはよう」

戸口に立った彼は、白いシャツに着替え、髪をざっと撫でつけていた。
湯気の向こうに立つその姿が、すこし遠く感じたのは、私の気のせいだったのだろうか。

彼「顔、洗う?」

うなずいて立ち上がると、足元が少しふらついた。
彼の手が自然と背中にまわり、私はまた、抱き寄せられていた。

私「……また会える?」

問いかけたのは、洗面所の鏡の中の私だった。
口に出したのは、わたし自身の声だったのか、わからないくらい小さな声だった。

彼は、その問いには答えず、私の髪を撫でただけだった。

***

朝食は、昨夜の残りの豆腐に、ご飯と味噌汁。
それを、まるで長年の夫婦のように無言で食べた。

けれど、その沈黙が嫌ではなかった。
むしろ、体の奥にぽつりと灯る火のようなぬくもりが、言葉よりも確かに感じられた。

食後、彼はゆっくりとコーヒーを淹れてくれた。
紙フィルターに落ちる一滴一滴の音が、静かな部屋に響いた。

彼「この前も言ったけどさ」

彼がマグカップを両手で包みながら、ぽつりとつぶやいた。

彼「あなたは、話しすぎないところがいい。誰かを裁いたりもしないしね」

私は、何も答えなかった。
その言葉は、誉め言葉だったのか、別れの予告だったのか、どちらにも聞こえたから。

帰り際、彼はマンションのエントランスまで送ってくれた。
ドアの前で、しばらく沈黙が続いたあと、彼が言った。

彼「また、湯豆腐でよければ」

その一言が、なぜか妙におかしくて、私は声をあげて笑った。
笑いながら、気づいていた。
私はもう、彼に惹かれていたのだと。

***

家に戻る電車の中で、私は自分の膝を見つめていた。
日常の中に、彼が入り込んできた感触が、まだ指先に残っている。

私「いつから、こんなに触れられたかったんだろう」

自分でもわからない。
けれど、その夜、寝る前に湯を沸かし、ひとりで湯豆腐を作ってみた。

白い湯気の向こうに、彼の声が聴こえたような気がして、私は箸を止めた。

まるで、これが恋の始まりなのだと、湯気が教えてくれているようだった。

作者

奈良あひる

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