灯らない部屋
最後に名前を呼んだのは、いつだっただろう。
鍵のかからないビジネスホテルの一室。午後二時の光がベッドのシーツにうっすら影を落としている。彼女はコートを椅子にかけ、窓際のカーテンに触れた。
乾いた都会の光と、どこか湿った彼女の気配が、部屋を曖昧に満たす。
女「まだ、会ってていいのかな」
問いというよりも、答えを知っている人のそれだった。
彼は返事をしなかった。ネクタイをほどく手を止めずに、彼女の横顔を盗み見た。彼女の指には、薄い指輪が光っていた。彼のそれと、よく似た色だった。
二人とも、家に帰る場所がある。けれどこの部屋には、誰の名前も書かれていない。
シャツのボタンが静かに外される。彼女の手は迷いなく、けれどやさしく彼の胸に触れる。愛しているわけではない。愛してしまったら、終わるから。
ベッドに横たわりながら、彼女はうっすらと笑った。
女「こうしてると、何もなかったみたいだね。あなたも、わたしも」
男「そうだね」
その声も、何かを手放すように小さかった。
彼の手が彼女のうなじにふれる。ゆっくりと滑り降りるように、肩を、背を、腰を撫でる。触れてはいけないとわかっているのに、触れずにはいられない。指先が記憶になり、肌の温度が嘘を溶かしていく。
絡めた体の向こうに、それぞれの生活の気配がちらつく。子どもの笑い声、食卓のにぎわい、乾いた洗濯物の匂い。けれどこの部屋には何もない。ただ静かで、決して灯らない、曖昧な午後の光だけ。
二人は何も言わず、音を立てないように抱き合った。
きっとまた、名前を呼ばずに別れるのだろう。そう思いながら、彼は彼女の髪をそっと掬い上げた。