習作 F

短篇小説

「六月の山影」

妻には、仕事の延長だと言って家を出た。
本当は、用もなくただ、山に近い古い図書館の空気を吸いたかっただけだ。
曇りがちの平日、車を停めたのは、町から少し外れた山裾の公共施設。そこに彼女がいた。

木のベンチに腰をかけ、白いシャツの胸元を片手で扇いでいた。
黒い髪が肩にかかり、指の先は小さな汗を光らせていた。

「暑いですね」

彼女が突然、こちらに声をかけてきた。
驚くほど自然な、隣に座るような声だった。

「梅雨の晴れ間って、空気が重いですよね」

僕は、うなずいた。
なぜか、挨拶のあとも彼女は席を立たなかった。
話し方に妙な親しみがあって、何かを共有しているような錯覚すら覚えた。

しばらくして、彼女が笑った。

「嘘でも仕事中って言えば、家を抜け出しやすいですよね」

僕は息を呑んだ。
言い当てられたわけじゃない。ただ、そう言える彼女がいた。

そのあと、カフェに移動して、お互いが既婚者であることを自然に明かし合った。
会話には何の踏み込みもなかったのに、どこか身体の表層をなぞるような温度があった。

帰り際、彼女がぽつりと言った。

「また会いませんか。来週の同じ時間、同じ場所で」

***

二度目の出会いのとき、すでに心は前のめりだった。
汗ばむ季節の風に乗って、何かが始まろうとしていた。

三度目の帰り、僕は彼女を助手席に乗せた。
そのまま、古い民宿を改装した喫茶店の裏手にある駐車場へ入る。

車内で、しばらく無言だった。
彼女が先に、僕の手の甲に触れた。

「……手、冷たい」

そのまま彼女は、僕の指を自分の太ももに添えた。
スカートの奥に、火照った肌の気配があった。

「……ほんとに、いいの?」

聞くと、彼女は首をすこし傾けた。
瞳の奥に、答えではない、渦のようなものがあった。

「いいとか悪いとか、もう関係なくて」

そして、彼女は僕の膝に跨ってきた。

スカートがめくれ、湿った下着が太ももの奥に張りつく。
車の天井が低くて、僕は頭をすこし傾けながら、シャツのボタンをひとつずつ外した。

ブラジャーの中に指を滑り込ませ、乳房の下を指でなぞると、彼女が短く息を呑んだ。
口づけは深く、舌と舌が触れ合うたび、彼女の腰がわずかに揺れた。

パンティをずらすと、もうじゅくじゅくに濡れていた。

「もう……入れて」

そう言った彼女の声に、後悔の気配はなかった。

窮屈な車内、僕はシートを後ろに倒し、彼女の中にゆっくりと入った。
最初は、互いに音を立てぬよう動いていたが、やがてそれもどうでもよくなった。

湿った肌と肌がぶつかる音が響く。
彼女の奥は驚くほど熱く、収縮するたびに、僕の理性が削がれていった。

「だめ……そこ、当たってる」

彼女が首を仰け反らせた瞬間、僕は腰を深く沈めた。
彼女は口元を押さえながら、背筋を震わせて果てた。

中には出さなかった。
ただ、ふたりはつながったまま、しばらく汗と息を混ぜていた。

外はまだ夕方。
鳥の声と、どこかの家の風鈴の音だけが、現実のように響いていた。

***

「また会いましょう」

彼女は、助手席を降りる前にそう言った。
言葉に約束のような響きはなかった。

ただ、体が記憶してしまった。
彼女の湿度、匂い、揺れ――
全部が、もう戻れない場所に僕を連れて行っていた。

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