田中屋の夕刻日誌「しゃそう」

夕刻日誌
夕刻日誌

「しゃそう」といえば車窓でる。世界の車窓の。
でも今回のテーマは社葬である。

社葬という言葉、僕は最近はじめて聞きました。

会社の代表がなくなったときなどに執り行われるそうです。

まず、この社葬について、
1、「そんなのいらねーよ、普通の家族葬でやれよ、男として裸になれ」
2、「社葬に、お香典はいるのか」
について取り扱いと思います。

まず、1について、

これは参加する側、つまり来場者目線でお話しします。

もと、社員はどういう立場でいくことになるのか。

ある会社の社葬には、定年退職した人は誰ひとり参加しなかったといいます。
それについて会社幹部は、非常識、薄情モノという言葉を放ちました。
はたしてそうでしょうか。
ちがいます。

いかない根拠は充分にあります。
社葬ということは会社行事であります。まだ、肩書きをぶら下げているのかよ!という点です。素直に向き合って放す気は全くないということです。上司は上司で、部下は部下、そんななかで行く気にはあ
ならないということは充分に考えられます。
その二人のなかに何があったかは、その二人にしかわからないからです。
しかし、個人の男として、肩書きなんて捨ててしまえば、それらを越えてわかり合うということは考えられます。
それを故人は拒否したのです。肩書き優先です。

そして、2について


お香典はいるのか。

この会社の場合、社葬ですので、社員はお香典を出さないという形をとったそうです。

では、元社員はどうなるかです。

もし、お香典を出さないといけないものとすると、これはやはりいかない理由になります。
なぜ、上司の方がお金を持っているのに、これからの部下、元部下がお金を出さないといけないのかという点です。

なくなるということは、なくなるしばらく前から仕事はしていません。しかし、権利収入は入り続けます。当然、社員のだれよりお大きな額です。それが、何ヵ月もの間入り続けます。使いきらない額です。
そんな中、今を生きている人がその故人のために払おうという気になるものなのでしょうか。なりませんね。今を生きているわけですから。そして、その人も次の世代のためにお金は使うものであって、亡くなった人に渡してなんになるのでしょうか。

例えば、個人であれば、また考えが変わってきます。

僕は、元社員が誰も来なかった話を聞いて、「まぁ来ないよね」と思いながら、ちょっとせつないですね、なんていうどうにでもとれることでも言っておくしかないのです。

大サビ

葬儀なんて、線香あげることぐらい、お香典なんていらねぇよって、感じです。
なので、会ってくれるのなら、ぜひ会ってやってくださいというのが、僕の考えです。

ちなみに…、

もういいか

エッセイ/田中宏明(写真家)

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