ラジオのネタ 阿刀田高と脚本化

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阿刀田高監修の短編集を読んだ

一般募集の短編作品をまとめて文庫本したものだった。
つまり阿刀田の作品は収録されていない。

面白い作品多かったのだが、一部にやたらと小説的表現・文学的表現を使っているものがあって、それはあんまりおもしろくなかった。

そういう表現を使っているから面白くないのではなくて、内容も面白くないのだ。
ということはだよ。阿刀田高はそのような作品が好きだということなんですよね。

そこが不信頼を生むってもんだ。
文章表現についてどのジャンルももちろん否定しないのだが、有効的に使われているのは、音楽の歌詞と、ドラマ映画の台本だと思う。

無駄がなく、最短で作者の意図を表現し、実際的に世の中にヒットしているからだ。

その中に文学的表現とか全く無意味なのだ。なんかうまいこと言おうとしてるな感があるだけで自己満足感優先というような。

そういう意味では、音楽の歌詞の方はその部分もあります。歌詞なんて関係ないぜ!という感じ方もあるからです。
小説で、その言葉が関係なかったらゼロになっちゃう、それはさすがにだめですよね。

小学生の頃、北の国からの小説が読みたくて図書館へ行った。
小説はなく、台本だけあった。僕はその時、台本に興味がなかったので借りなかった。図書の先生に聞くと、倉本聰は小説ではなく脚本家、小説はこの世にない、というようなことを言っていた。


僕は今になって、それを思い出し、台本(脚本)を書くという余計な小細工表現を使わない世界に憧れるのである。

脚本というものはそれを元に撮影部隊が映像を撮る設計図。つまり撮影隊に伝わるものでなければならない。
小説というものは分かる人にだけ分ければいいと言ったような、酔を感じる。

小説が好きな人が書いた小説はちょっと表現に酔っている気がする。本人は「酔ってないぞ〜」と言う。

なので小説家は、自分の作品を脚本化できない。
だれかが情景をうかべて、組み立ててあげなければならない。それも脚本化。現実化でもいい。

とにかく僕は一切、文学的表現、小説的表現を使わず書き続けたいと思っている。

この文にでてくる文学的表現・小説的表現の例がないからわかりにくいですよね。
今度もう一度その本に出逢ったら、例を出します。

田中宏明

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