「白い湯気」
雨上がりの午後。
百貨店の食器売り場で、私は偶然にも声をかけられた。
「すみません、それ、使いやすいですか?」
指さしたのは、私が手に取っていた白い急須。口が広く、丸みを帯びた優しい形をしている。
「ええ、これ、蓋が落ちにくくて。実家でも使ってたんです」
自然に笑っていた。なぜか、すんなり言葉が出た。
彼は、年のころなら五十前後。黒縁の眼鏡がよく似合い、シャツの袖口から、丁寧に整えられた手がのぞいていた。
彼「贈り物にしようと思ってね。女友達に」
そう言って笑ったが、声にいやらしさはなかった。不思議と嫌な感じがしなかった。
そのあと、喫茶店でコーヒーを飲んだ。
名前を名乗り合い、歳も、職業も、大して隠すことなく話した。
「あなたは、面白いね。すごく黙ってるのに、言葉を選ぶ人だ」
彼の言葉に、胸がじんわりと温かくなった。
何年ぶりだろう、人からそんなふうに言われたのは。
気づけば夕方、雨の匂いがまだ空気に残っていた。
彼「じゃあ、また」
私「……うん、また」
電話番号を交換するでもなく、それだけで別れた。
でも、翌週の日曜、同じ店で、彼はまた現れた。
まるで約束していたように。
*
三度目に会った日、彼の部屋に行った。
断る理由もなかったし、少し、期待もしていた。
部屋は想像よりもずっと整っていて、キッチンのタイルも白く磨かれていた。
「料理はね、嫌いじゃないんだよ」
カセットコンロに小鍋をかけ、湯気が立ちのぼる。
鍋の中は、ただの湯豆腐だった。ポン酢と、刻んだ青ねぎ。それだけ。
「女の人に食べさせるの、慣れてるでしょ」
ふと口をついて出た私の言葉に、彼はすこし驚いたように目を細めた。
「そうかもしれない。でも、いま隣にいるのはあなただよ」
豆腐をすくう彼の手が、やけに丁寧で、それを見ているだけで、胸の奥がざわついた。
食事が終わっても、テレビも音楽もつけなかった。
部屋には、食器の触れあう音と、湯気の匂いだけが残った。
私「……化粧、落としていい?」
彼「うん」
洗面所で顔を洗い、タオルで拭いて戻ると、彼はソファの上に静かに座っていた。
目が、まっすぐだった。怖くなるほど、澄んでいた。
私の手をとり、何も言わず、そっと引き寄せた。
体温のある手が背中にまわると、力が抜けていく。
彼「服、脱がせていい?」
その言葉に、私は小さくうなずいた。
何かを焦るでもなく、彼の指は、ボタンを一つ一つ、ほどいていく。
下着を外すときも、まるで壊れものを扱うようだった。
ベッドの上で、彼は私を見下ろしながら、目をそらさなかった。
そのまなざしの中に、欲望だけではない、何かがあった。
寂しさなのか、慈しみなのか、それとも、別のものなのか。
中に入ってきたとき、私は軽く息をのんだ。
でも、すぐにその動きに身をゆだねた。
音もなく、ただお互いの吐息だけが、部屋に満ちていく。
時間が止まったようだった。
遠くで、電車の音がかすかに響いていた。
やがて、彼が深く息をついたとき、私は目を閉じた。
何かが終わって、始まった気がした。
そして、また湯気のように静かに目の前が曇っていった。
つづく