田中屋のロード俳句とひと駅ひと喫茶「東福生 D-13カフェ」

夕刻コラム「ちゃんよた ふたつの世界観」

ひとつのことでお金を得るところまで行くというのは本当にすごいこと。
このひとはみっつですね。
これは自分に言い聞かせてることなのですが、お金にならなくてもふたつの世界をもつこと。これが生きていける秘訣だと思います。僕は生活はカツカツですが、それのおかげでぎりぎり生きてるのだと思います。
田中屋のシティスナップ「江の島の女」

撮影/田中宏明
連載小説「女の風景雑記」第4話 奈良あひる

グラスの氷が小さく音を立てて割れた。由紀子はそれを見届けるように視線を落としたまま、静かに頷いた。
佐川の指が、ゆっくりと彼女の手を包む。大きくも力強くもないが、不思議に抗えない温度だった。
「……少し歩きませんか」
彼の声は雨音に溶けて、耳にやわらかく届いた。
店を出ると、雨は小降りになっていた。傘を差す佐川の隣を歩きながら、由紀子は自分の足音が別の誰かのもののように思えた。
辿り着いたのは、ごく普通のビジネスホテルだった。フロントの明かりが、妙に白々しい。胸の奥で「やめるなら今だ」と声がしたが、唇は固く閉ざされたまま動かなかった。
部屋に入ると、湿った空気と共に静けさが落ちてきた。窓の外ではまだ雨が残っている。
佐川は言葉少なに、由紀子の肩にそっと手を置いた。その仕草は急ぎも乱れもなく、ただ彼女の答えを待つようだった。由紀子は一瞬目を閉じ、息を吸い込み、それから小さく頷いた。
やがて二人の距離は、迷いを越えてひとつになった。
衣擦れの音、触れ合う体温、互いの鼓動。どれもが現実でありながら、夢の中の出来事のようだった。時間は外の雨音と混じり合い、どこまでも曖昧に流れていった。
――気がつけば、夜は深まっていた。
シーツに横たわると、由紀子の胸には奇妙な静けさが訪れた。罪悪感と解放感とが入り交じり、どちらにも寄りかかれない。佐川の寝息を聞きながら、彼女は天井を見つめた。
ここにいる自分は、本当に自分なのだろうか。
それとも、日常から抜け出した、もうひとりの影なのだろうか。
答えは出ないまま、夜の帳がゆっくりと降りていった。
つづく

=ライブのおしらせ=
BerryBerryBreakfast現場ラジオLive
9月7日 南林間チャンドラ・スーリヤ
17:30スタート
オールデイズ直江津Radioモーニングから
ラジオドラマ「わけありキャバレー」と歌の世界をお届けします。
脚本・歌・出演/田中宏明
編集者紹介
田中宏明 1980年生まれ 東京都昭島市出身の週末の写真家・放送作家。
2003年 日本大学文理学部応用数学科 ぎりぎり卒業。下北沢・吉祥寺での売れないバンドマン生活を経て、会社員(番組制作→不動産業)となる。
◆写真家:シティスナップとかるーい読物「井の頭Pastoral」撮影・編集
◆放送作家:ラジオドラマ「湘南サラリーマン女子」原作・脚本 オールデイズ直江津Radioで放送中!
出演ラジオ 第96
回
田中屋のシティスナップ
田中屋のロード俳句
田中屋のロード俳句のテーマ「それって感情の環状ってことよね」
井の頭Pastoral
わけありの女