田中屋の夕刻日誌「”戦争でなくなった人の分まで幸せに”は本当なのか」文/田中宏明

夕刻日誌
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=夕刻日誌=日常はエッセイにするとちょっとメルヘン。卒論のネタとスナックのママの話題のネツマミとは似たようなものだ。デートにも使える話題のネタを紹介。満員電車の脳内暇つぶしにも。

戦争に関する映画を観て

戦争映画・ドラマのようなものは8月になるとよくテレビで放送されていて、それをきっかけに何かレンタルでもしてみようかとか思ったりもするのです。

その中で気になる言葉に出会った。

生き残った者は亡くなった者の分まで幸せにならないといけない

というセリフ。

これどう思いますか?正しいですか?どう解釈すると「正しい」となりますかね?

まずこの言葉は、生き残った人の発言です。

問題なのは「誰が対象なのか」「誰への言葉なのか」「その誰かへその言葉をあててどういう効果を生み出すのか」です。

登場人物は次の3パターンに分けたとします。

  • 戦争で亡くなった人
  • 戦争で生き残った人
  • 戦争へ行っていない人

これは大変失礼に当たる可能性があります。実際それはどうなのか、見ていきたいと思います。

その亡くなった人は、恋人と暮らしていたとして、その人の分まで幸せになるということは、その女と暮らし始めるというふうにもとれます。「おまえの分まで幸せにならないといけないから、おまえの女をいただくよ。さらに自分の女とも幸せにならないといけないから、そっちも継続します」そんなこと言えるんですか?亡くなった人に。そう考えたら、亡くなった人へ使う言葉ではありません。亡くなった方はムカつきますね。

生き残った人へ伝えた場合

俺はあいつの分までしあわせにならないと行けないから、あいつの女と同棲するわ。

これを生き残った仲間に言って、なんて言ってもらいたいのでしょうか。ちょっと疑問です。

では、戦争に行っていない人へ言った場合

「それ、その亡くなった仲間に頼まれたの?」となります。「いや、頼まれてはないけど」となります。「その男が死んで、狙っているとうこと?」となります。「私はどうなるの?もう意味わかりませんね」

こんなことを映画を見ながら考えていたら、その次のストーリーがしばらく入ってこなくなってしまいました。

そのとき考えたことは次のセリフでいいのではないかと候補を考えました。

「俺たちだって死ぬかもしれなかったんだ、なんとか生き残ったんだから幸せになってやるぜ、バカヤロー」ってとこかなと思います。

“その人の分まで”というのはちょっとひっかかりましたね。いや、結構ひっかかりましたね。

幸せは人と比べづらく、数値化もできないので、自分が幸せになると表現するしかない気がします。

その人の分まで幸せにならないといけないというのは、どういう理屈なのでしょうか。

作者紹介

田中宏明 1980年生まれ 東京都昭島市出身の週末の写真家・放送作家。

2003年 日本大学文理学部応用数学科 ぎりぎり卒業。下北沢・吉祥寺での売れないバンドマン生活を経て、会社員(番組制作→不動産業)となる。

◆写真家:シティスナップとかるーい読物「井の頭Pastoral」撮影・編集

◆放送作家:ラジオドラマ「湘南サラリーマン女子」原作・脚本 オールデイズ直江津Radioで放送

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